『魔法少女リリカルなのはA’s』雑記16

第11話「聖夜の贈り物」感想。内容に触れての雑感を書いていこうと思います。
今話は、私が見たいと思ったものがすべて表現されていました。なのはの、フェイトのはやてのやさしさと強さ。デバイスたちの覚悟。純粋に熱い魔法攻撃。いや、見たいと思っていたものだけではなくて、自分ですら、こういうものが見たいと思っているのに気づかなかったものさえ、そこにありました。簡単にいえば期待以上のものがあったということなのですが。


今回は、まずは闇の書の中での、静かな戦いを中心に感想を書いていこうかと。それとは対照的な現実空間での激しいバトルについてはすこし置いておいて。

それはきっと、心を繋いだ確かな絆。
強く確かなはずの主従の絆は、だけど今は、二人を縛る悲しい鎖。
遠い過去から、近い過去から続いている、痛みに覆われた冷たい現実。
この手の魔法は、悲しみと涙を撃ち抜く力。
きっと助けるから。
だからもう、泣かないで。


闇の書の内部空間。フェイトの夢の世界、懐かしい草原、降り出す雨の中、木の下で雨宿り。
「あま、やど、りっ」ってかわいいなオイ、アリシア…。
二人並んで話す姉妹。「母さん」―プレシアについて。

アリシア「優しい人だったんだよ。優しかったから、壊れたんだ。死んじゃった私を、生き返らせるために。」

そう。優しいんだ。『なのは』の世界のキャラクターたちはみな優しい。優しすぎるのかもしれない。それも中途半端なものではなく、たとえ揺らぐことはあっても、結局は突き詰めた部分で、徹底的に優しい。その優しさが、優しいゆえに気持ちのすれ違いを生み、自分自身を傷つけて、時には壊れてしまう。ずっとそうだった。
プレシアがそうだった。かつてのなのはとフェイトがそうだった。なのはやフェイトと守護騎士たちがそうだった。グレアムとリーゼたちがそうだった。でもそれを解決するのも、同じ優しさであったはずで、あるはずだ。だから、なのはは、フェイトは、強くなろうとしてきたのだろう。だからこそ、その手にはいま、「悲しみと涙を撃ち抜く」ための魔法の力がある。


しかし、今話ほど、前作の無印『なのは』の物語を振り返らせる話は、『A’s』においても今まではなかったでしょう。『A’s』から見始めた人はどのように感じたのかなと気になったりしました。無印から見ている人にとっては、自分もそうですが、この点から受け取れるものはかなりあります。あとは小説版とサウンドステージの話も、知っているか知らないかでは、受ける印象にかなり差がでますよね。プレシアの過去や、リニスについては特に。
余談ですが、アリシアとフェイトのベッドルームで、リニスが手のひらを胸の前でポンとあわせながら「さ、着替えて! 朝ごはんです!」というシーン。ここでリニスさんに惚れました(笑)。どうのこうのなく、このポンってポーズが無意味にしかしものすごく好きな私。



闇の書の意志「我が主もあの子も、覚めることない眠りの内に、終わりなき夢を見る。」
闇の書の意志「生と死の、はざまの夢。それは、永遠だ。」

闇の書も、優しいからこそ、「永遠」に逃げなければならなかった。プレシアがアルハザードを求めたのも、そこに「永遠」があると考えたからだろう。
でも、そこにとどまっていてはいけない(純粋にいけないのかどうかは分からないが…もしかしたら、それもひとつのあり方かもしれないが…)。

なのは「永遠なんて…ないよ。」
なのは「みんな変わってく。変わっていかなきゃ、いけないんだ。私も、あなたも!」

「永遠」に安住しないための強さ。「永遠」…。《ONE》を思い出しました。
この「永遠」を巡る命題。人間にとってはかなり普遍的なものなんだろうな。「永遠」を求めて、そこに身をゆだねることの心地よさ。例えば現実の話、「物語」の世界に心を完全に預けて、そこへ逃避するようなあり方にも似ているような気がします。


闇の書は主の願いを叶える。それは、結局は、主の望む世界を「夢」であり「永遠」を見せてくれる力があるということだったのだろうか。闇の書の歴代の主は、弱さゆえに、もしくは欲望ゆえに、その夢に溺れて、侵食されて、闇の書の外部では破壊が行われていく、そういうことだったのだろうか。しかし、それすらも、闇の書の意志の優しさから発しているものだったとは。はやてを侵食し殺してしまう自分自身を許せない、そういうところから出てきたものだったのか。


それと、少し思ったのは、なのはの優しさについて。
フェイトが今の優しさと強さを手にしたのはなのはの存在があったから。では、なのはの持つ優しさや強さはどこに由来しているのかなと。
なのはが、小さい頃に「家庭の事情」でさびしい思いをすることが多かったということは、これまでのストーリーの中でわずかに語られてきたことですが、そのトラウマの反転としての優しさというのは確かにあるのでしょう。はやての優しさとか強さもも、おそらくはそういう種類のものだと思います。
ただ、なのはの場合は、本来的、生来的にそういう性格なのかなという気もします。もちろんフェイトやはやても、きっかけがあったとはいえ、素地があるからこそ、いまのあの性格があるとは思うのですが、なのはの場合は、もっと根底のところで、そういうものを備えているように思うのです。「すでにそこにあるもの」の強さみたいなものを感じるのですが。や、単に私がそういう存在とか、そういうキャラクターが好きだということなのかもしれませんが。
無印『なのは』のオフィシャルページの、なのはキャラクター紹介、

成績優秀、健康優良、家族想いでまじめで明るいよい娘。
ひょんなきっかけで「魔法少女」となってしまうが、ジュエルシードを巡るさまざまな人々の思いや、発生してしまう事件に心を痛め、「自分には、困っている人を助けてあげられる力があるのだから」と前向きに魔法の力と向き合うようになっていく。
深い優しさを持っており、悲しい出来事や困っている人を放っておけない性格。本人にその自覚はあまりないが、「正義」の心にとても厚い。

この部分を引用しておきます。




闇の書に吸収されたフェイトの見た光景。もうあるはずのない「時の庭園」。
リニスもアリシアも、そしてプレシアも、夢の世界の中のすべてがフェイトに優しい。これが本当に、本当にフェイトが欲しかった世界であることが分かる。そして、それがどんなに望んでも叶えられることは決してなかったということも、分かる。この幻の世界ですら、プレシアによって、フェイトに機械的に導入されたアリシアの記憶の一部から構成されたもののはずだ。それがまた哀しい。
夢とは思えないほど、あたたかく、そこにある朝食の食卓。活けられている青いバラがちょっと気になったのだけれど、“Blue rose”って「実現不可能」とか「夢」とかそういう意味もあるんじゃなかったっけ。この世界が本来あるはずないという暗示なのかな。この花を前にして「違う。これは夢だ」という独白。

「私がずっと欲しかった時間だ。何度も、何度も、夢に見た時間だ。」

庭園を歩く一行。アリシアに話しかけられて、本当に嬉しそうなフェイト。そして、それまでの状況に感極まって泣き出してしまう。「夢に見た時間」であり、それが現実でないことを知りながら、でもそれを否定しきることもしない。理性ではこれは違うと理解しかけていても、感情的には素直に嬉しく思える。そういう気持ちの温度差が、この涙を作り出したのだと思う。ありたい自分と、現実に自分はどうであったのか、その乖離のストレスが、この涙につながったともいえるでしょうか。
フェイトの夢は、私自身がこれまで見たかった世界でもあった。でも、この世界は本来あるべきものとはどこか違う、そういう感覚で、私もこの場面を見ていました。


いやはや、理屈ぬきで今回の話は本当にクる。
フェイトが涙を見せたこの時点で、私の視界もすでにかすみ始めておりました(泣)。


緑の草原。小さなお姉さんと、大きな妹の、ほんとにほほえましい姉妹。
「フェイトが欲しかった幸せ、みんなあげるよ」というアリシアに対して、「だけど、私行かなくちゃ」と戻るという決意をするフェイト。外で戦っているなのはと同じように、フェイトも闇の書の中で静かに試練を戦っていたのだな。そして同じようにはやても戦っていた。外と内の動と静の展開が平行して進んでいく今回の展開は、ストレートなものであり、そういうまっすぐな力強さがあって本当にいいなと思う。
フェイトは夢の世界に、それが例え幻の世界であっても、そこから優しさを、力を受け取り、現実の世界に戻っていく。やはりフェイトも強い子だ。アリシアから差し出される待機状態のバルディッシュ

フェイト「ありがとう、ごめんね、アリシア。」
アリシア「いいよ。私はフェイトのお姉さんだもん。」
アリシア「待ってるんでしょ。優しくて強い子たちが。」
アリシア「じゃあ、いってらっしゃい、フェイト。」
フェイト「うん…。」
アリシア「現実でも、こんな風に、いたかったな。」

これは夢であっても、幻であっても、この会話の中でフェイトがアリシアから力を受け取ったならば、現実にフェイトとアリシアは同時には存在し得ないとしても、間違いなく、現実以上に、アリシアはフェイトのお姉さんなのだと思う。
優しく抱擁しあうフェイトとアリシア。そして、フェイトの腕の中で消えていくアリシア
うわぁ…。これはずるい。こんな場面を見せられたらもう。「いってらっしゃい」って! 良すぎです! 「優しくて強い子たち」って! ツボにくる表現が続きます。


この時に完全に私の感情も決壊したようで、自分でもよく分からないうちに涙をボロボロと流しながら見ていました。すごくあたたかい気持ちになった。この後、挿入歌が流れているシーンがその絶頂で、もう泣き続け。悲しいのではなくて、嬉しい感情から発しているのだと思いますが、こんなに泣きながらアニメを見たのは初めてかもしれない。




「名前」。こんなに、こんなにもやさしいプレゼントが「聖夜の贈り物」として用意されていたとは。これは嬉しい限り。

はやて「せやけど、それはただの夢や。」
はやて「私、こんなん望んでない。あなたも同じはずや。違うか?」

はやてをいとおしく思うからこそ、そのはやてを侵食し、殺してしまう自分をどうすることもできない、止められないことを悔やみ、自分が許せないという闇の書の意志。

はやて「望むように生きられへん悲しさ、私にも少しは分かる。シグナムたちと同じや。ずっと悲しい思い、さびしい思いしてきた。」

前期から『なのは』の世界の現実把握の感覚の根底にある、クロノの「世界はいつだってこんなはずじゃないことばかりで、ずっと昔から、誰だって、いつだってそうなんだ」という言葉が思い出される。でも、それは決して絶望的な言葉でも、かといって楽観的なものでもないだろう。プラスでもマイナスでもない、そこが基点、始めるところとなるということではないか。それは「永遠」を求める姿勢と対極にあるものなのでは。

はやて「せやけど、忘れたらあかん。あなたのマスターは今は私や。マスターのいうことは、ちゃんと聞かなあかん。」

その上で、このように闇の書の意志に、力強く見開いた目でこう語りかけられるはやては強い。その瞳に強い心を感じます。

はやて「名前をあげる。」
はやて「もう『闇の書』とか、『呪いの魔道書』なんていわせへん。私が呼ばせへん。」

「名前」。もちろんすぐに無印『なのは』の「なまえをよんで」を思い出すのだけれど、名前を呼ぶことが、相手の悲しみを自分でも引き受ける、気持ちを分け合うことだった。そして名前をあげることも、それを象徴する行為だ。
闇の書の意志の頬に両手を添え、優しく語り掛けるはやて。頬に手を当てられることのあたたかさ、そこから直に伝わってくる優しさ。言葉だけではない、感覚に寄り添って想いを伝えようとするはやての気持ちが分かる行為。外にいる管理局の人に、イコールなのはだが、はやてが闇の書の中から話しかける時、「そこにいる子の保護者」という言い回しを使ったことと共に、はやての強さが感じられる行動でもある(時の庭園内の描写の中で、「悪い夢をみたのね」とフェイトの両頬に手を当てようとしたプレシアに身をかたくしたフェイトの構図とは対照的だなあ)。
このはやての呼びかけの後、闇の書の意志が見せた涙は、前話の戦闘の中でなのはやフェイトが見たもののさらに奥底にある(心を隠すための手段としての涙だったのではないか)、彼女の本当の涙だったのではないか。なのはがいっていた「あなたには心があるんだよ。悲しいっていっていいんだよ!」という言葉の通り、自分の心を見せた瞬間だったのだと思う。

はやて「夜天の主の名において、汝に新たな名をおくる。」
はやて「強く支えるもの、幸運の追い風、祝福のエール。リーンフォース。」

名前を呼ぶはやての瞳。そこに今度は無限の優しさを感じる。

リーンフォース「ですが、防御プログラムの暴走は止まりません。管理から切り離された膨大な力が、じき暴れ出します。」
はやて「うん、まあ、なんとかしよ。」
はやて「いこか、リーンフォース。」
リーンフォース「はい、我が主。」

「まあ、なんとかしよ」。そう! この局面において、こういう何気ない言葉を口に出来る強さ、これがいい。こういう台詞を聞きたかったんだ私は。そして「いこか」というはやての言葉の心強さ。さらに「はい、我が主」と答えるリーンフォースの嬉しそうな口調によって、私が嬉しすぎる状態に。