会話について

当然のことではあるのだけど、「会話」とは、それが親密なものであれ、それほどのものではない場合であれ、こちらを向いて話してくれているかどうかだな、ということを思わせるようなことが、よくあるし、今日も、あった。というか、強くそう思うことがあったので、こんな文章を書いているのだけれど。
もちろん、ただ単に、情報を伝達することを目的にする場合や、論理的に何らかのことを説得する場合も、あまり関係ないかもしれない。しかし、相手の感情の部分にまで踏み込む場合、それが最低ラインにすらなりうることだ。
この場合の「向いて」というのは物理的な方向ではなくて、こちら、つまり「私」に対して言葉と想いを伝えようとしているかどうかであって、そういう意味で、こちらに向いているかどうか、そこにポイントがある。そうでない会話というものは、それなりの効用はあるけれど、結局はむなしい、と思う。第一、そうじゃない会話、例えば、自慢話や、ただの意見の押し付けは、美しくない(自戒も込めて)。
どんなにこちらの目を見て、熱心に語りかけていたとしても、その方向が、実のところ話している自分自身の方しか向いていなかったり、私の頭上を越えて、どこか遠くの何かに向かって話ているのでは、結局こちらを向いてはいない。
一方、どんなに言葉の数が少なくても、どんな調子であろうとも、話者の顔がこちらに向けられていなくても、その言葉と想いがこちらに向けられているならば、それはこちらを向いて話しているのだと思う。それに、もし言葉の内容や表現が、厳しく鋭いものであったとしても、こちらを向いて発せられたものであれば、受け止められて行くのだと思う。もう一つ、言葉での想いの伝達って、その他のものに比べたらプリミティヴなものなんだろう。普通、表現というものについてはある程度の技術がければ伝わりにくいものだと思うのだけれど、発せられる、喋られる言葉については、そういうことがないように思う。
この場合で考える「会話」というものは、一対一での関係でしか成り立ちにくいものだ。そして常に双方向でなくてはならない。そして、すべて「会話」とは、相手のためという点から発するんじゃないだろうか。そこにいる人を思うからこそ、その人から言葉を引きだそうとして、言葉を投げかける。その人にこそ自分の想いを知って欲しいと思うから、だから話し掛ける。すべての会話が完全にそうだというわけではなくて、どんな会話の根底にも、わずかでも、こういうものが必要なのではないだろうか。
ただ、「相手のため」というのは、少し問題があって、以前は「自分は、自分のためではなくて、人のために○○をしている」というふうに物事を考える(今思えば、「思い込もう」としていたのかもしれない)ことが多かったのだけれども、いつからか、もしかしたら、そういうように考えていたことについてもすべて、自分のためだったのかな、と思うようになってきている。結局、悪い意味ではなくて、人が何か行動することのすべての原点には「自分のため」というものが、意識しないまでもあるのかなと思う。だた大切なのは、それが単独でエゴとして存在するのではなくて、同時に、それそのものが、イコール「誰かのため」であるということが重要なのではないだろうか。そう考えた方が「健全」のように思う(「健全」という響き、あまり好きではないんだが)。
以前の私は、そのあたりが見えていなかったようで、イイヒトであろうとしていたのかもしれないが、(未だに、「もし仮に」ではあるが)すべて自分のためであって、というところが出発点ならば、「自分のため」にわずかでも「誰かのため」が重複すれば、それでいいんじゃないかと考えるようになってきていたり(確信ではないけれど)。そして両者がイコールな場合が、最も理想的であると。
それはさておき。さて、実際のところ、そういう会話って稀だと思う。いや、それだけそういう会話をする場面にめぐり会えるということは幸運であり、同時にそれだけそういう会話を成立させるのは難しいのだろう。それに、そんな会話ばっかりしていたら、精神的に持たないだろうし。だからこそ、そんな想いのやりとりに、あこがれてみたりもする。
たぶん、私が好きな物語には、そういう言葉の受け渡しあいがあるんだろうなと思う。創作物の感想を書くということは、そんな場面に反応した自分の感性というか、いま書いた「あこがれ」を確認することでもあるんだと。