作品の中にすべてがある:『魔法少女リリカルなのは』OPに感じるもの

無印なのはのOP。
ここしばらく見ていなかったけれど、久々にリピートをかけて、見る。流しておいてその心地よい空気を楽しむ、というのは時折していたけれど、今日はしっかりと見てみたいなと、そういう気分だった。


これをはじめて見てからもう1年経つけれど、これをこえるムービーにいくつ出会えただろうか。今の自分のPCに入っているムービーで最も頻繁に、最も真剣に見ている映像だ。


未だ、未だに新しい発見があるのは驚きである。
これまで大まかに見ていた、なのはやフェイトの所作やポーズ。その中のより細かな、例えば手の置かれている位置の絶妙さとか、何かの動作に入る前の微妙なモーションとか、見ることのできていなかったものがいくつも存在することに気づく。


学生時代、「作品」というものに対する態度に関して、ある人から「作品の中にすべてがある」ということをいわれ続けていた。ある作品を見る時、その作品について何か書いたり、語ったりする時には、常に作品そのものから発して、よく見て触れ続けて、途中離れたとしても、最後にはまたそこに戻っていけ、そして作品から離れて文章だけを弄り回すなよ、ということだったと思う。
今でもそれは頭に残っていて、何かに対して「感想」を書く時には、時間と事情が許せば、可能な限り作品に触れて、繰り返し見て、その過程で自然に掬い取ることの出来たものを書きたいと思っている。だからといって、残念ながら、私ではそう大したものが引き出されてくるわけでもないのだけれど…。
もちろん、作品をめぐる言葉とか、その周囲にある現象なども重要な要素で、それらに注意を払うことも必要だ。でも、それ以上に、作品に常に寄り添って何かを感じ取っていくことに興味がある。


そういう点から、このムービーを見返した時、その中にまだまだあるものの豊富さに眩暈を覚える。
もしかしたら、無印全体と、もっといえば『A's』を貫いて存在する『なのは』の世界のすべての骨格が、すでにこのはじまりの時点で、一度答えられているということすらも、いえるんじゃないだろうか。


例えば、なのは、フェイト、そして、はやてに付き纏っていた孤独感。
OPの中間部分、士郎と桃子、すずかとアリサ、アルフ、月村家の面々、恭也と美由希たちが登場する場面は、その前後とは空間的に切り離されているように見える。


この場面より前にあるのは、レイジングハート、一人でいるなのは、なのはとフェレッ…もといユーノ、フェイトとアルフ、なのはのバリアジャケット装着シーン、なのはとフェイトの戦闘シーンなどだ。
どうしても、この流れ全体にある寂しさを感じてしまう。なのはやフェイトが様々なキャラクターと一緒に登場する場面がない。


一人で膝を抱えるなのはのに駆け寄るユーノは、なのはが偶然に手に入れた「魔法の力」の象徴のように見える。この、なのはがいる草原は一体どこなのだろう。
画面の奥、どこまでも続く草原。はるか向こうに見えるなだらかな山。私が想起したのは、『A’s』第11話で登場したフェイトの夢の世界。そういう現実味のあまり感じられない空間だと思う。これが、イメージとして、なのはの抱いていたさびしさにつながっているのではないか。
なのはが自らの孤独(むしろ違和感とでもいうべきか)に関して語ったのは本編では、わずかであったと思う。フェイトの抱えるものに対する共感として、少し表現されていた程度だったか。元々強い子で、いい意味での良い子であろうなのはが、そういうものを強く出すことはないだろうし。またなのはについていえば、孤独だけではなくて、「自分にできること、自分にしかできないこと」が何なのか、それに対する迷いというものも、同じくらい強かったのだろう。
そういえば、なのはのいるのが陽光溢れる明るい草原なのも興味深い。そういう明るい空気の中にある、うらはらな悲しさを感じさせる。


次の場面に登場するフェイト。ここでのアルフはフェイトが背負っている事情をイメージさせる。プレシア、リニスに通じる「事情」だ。フェイトが抱える苦しみを表現している。


変身を経て、そして空へと跳ぶなのは。
変身の過程において、最初に現れた魔方陣は青白い魔法光。そして変身を終えてレイジングハートを手にした後の魔法光はピンク、なのは自身の魔法光だ。最初は与えられた魔法の力を、いつしか自分のものとして、自分の意志で使用している、そういう変化のイメージがある。例えば、最初の魔方陣の直後にバリアジャケットが登場するが、これはなのはが、自分の意志で選び取ったかたちだっただろう。
この場面では、背景に森と、石造の遺跡のようなものが見える。やはり現実ではないどこかが、前の場面から連続しているのだろう。しかし、なのはが大地を蹴って飛翔したその後、場面は変化する。


夜の空で向かい合うなのはとフェイト。この場面は海鳴上空と考えていいだろう。つまりはここはすでに現実だ。フェイトに正面から向かい合い、間近でぶつかり合う二人。同時に、なのは自身が現実と対峙していることも表しているのではないか。
なのはが地面から飛び立つ直前、レイジングハートを手にして、顔をゆっくりと上げていく、あの印象的な場面がある。まずは穏やかな表情で、ここでピンクの魔方陣が描かれ、そして次の瞬間には力強くと、その表情が変わっている。この変化によって、このポイントの後では、意識が現実へと向かっているというイメージが強化されている。


この後に続くのが、先ほどの中間部分。一気に安らぎと温もりを感じる(この直前に一瞬だけジュエルシードがうつるのは、不安を示す、うまい表現だと思う)。現実につながってそこにある日常といっていいだろう。舞台は、翠屋であり、学校であり、月村家、高町家だ。繰り返される笑顔。ここでのアルフは、先ほどの場面での登場とは異なり、フェイトの使い魔で、友人としての存在か。
夢、現実、日常という、この場面の変化は面白い。夢から現実に向かい合うことで日常を獲得していくという、すこしばかり分かりやすい解釈をしたくなってしまう。


さて、次にこの中間部分の後に続く場面を見ていこう。


水面近くで「ずっとそばにいるから」のなのは、屋上へ降りる、レイジングハートを手に、制服姿のなのは、と続く。
ここには、なのは一人しか登場しない。やはりさびしさがある。しかし、それは中間部分の前とは、そこを経たことで、また違った種類のものだろう。


「ずっとそばにいるから」の部分はもういうまでもなく。自分にそれをすることができる力があるということで、フェイトに寄り添って、想いを分け合おうとするなのはの姿がそこにある。
それほど関連性はないが、水面というと、やはり「決戦は海の上でなの」は思い出してしまう。ああ、なのはが、自分が、父の入院で家族が忙しく、広い家で孤独な幼少期を過ごしたことをユーノに告白したのはこの回だったか。ああ、そうか、なのはの「ふたりできっちり、はんぶんこ」も、「友達になりたいんだ」もこの回か。なのはがフェイトの孤独を感じたいと願ったのはこの時か。ならばOPのこの部分に水面があることも、ここで「ずっとそばにいるから」という言葉が発せられたことも、意味のあることだろうか。


空から着地するなのは。バリアジャケットではなく制服姿であることが重要だ。異世界からの友人ユーノを肩に、魔法の力であるレイジングハートを手に。もはや偶然手にしたものとしてではなく、自分の力として魔法を使っていこうとする、魔法少女を続けていこうとするなのはの姿なのだと思う。バリアジャケットではなく、制服姿でレイジングハートを手にしているのはそういう意味だろう。


最後の場面、ユーノを肩に、夜の街を見下ろすなのは。その足元には赤い球体。この球体はレイジングハートと考えて問題ないだろう。なのははこの球体に立ち、その上に長い影が落ちている。単なるデバイスではなくて、共に歩んでいく存在としてのレイジングハートを想起させる。
時間はまだ夜かもしれないけれど、夜明けの近い夜だろうか、このほのかな明るさは。球体の表面にも空がうつる。

この広い空の下には幾千幾万の人たちがいて
いろんな人が願いや想いを抱いて暮らしていて
その想いは時に触れ合って、ぶつかりあって
だけど、その中の幾つかはきっと繋がっていける、伝えあっていける
これからはじまるのはそんな出会いとふれあいの物語

この空には、無印1話のなのはのモノローグを思い出す。


桜の花吹雪を抜けて、最後にタイトル。桜は『なのは』の物語の中ではいつも象徴的。『A's』の本編ラストもこれで終わっている。『なのは』的な、おわりであり、はじまりでもある一つの到達点のシンボル。


こうして見てくると、このOPの映像は、見事に無印のストーリーの流れを集約したものになってはいないだろうか。だからこそ、このわずかな時間の映像が、これほどまでに魅力的なのだと思う。


それと今回再認識したのは、『innocent starter』の歌詞内容が、いかにこの映像とシンクロしているか。さらに水樹さんの歌声が、いかに欠くことのできないものであるかということ。


こういうまったくの勝手な解釈が可能というのは、それを許容する懐の深さが、この『なのは』の作品の中にあるということだろう。


うわ、ちょっとした妄想のはずが、いつのまにかこんな長文に…。