山内昌之『嫉妬の世界史』

感情の種類にはいろいろあれど、自分がするにせよされるにせよ、できればお近づきになりたくはないのが嫉妬。ヤキモチを焼かれる程度なのは、場合によっては幸せなことなのかもしれないが。


激しく余談だが。
今すすめている『デモンベイン』。
最後の最後にマスターテリオンが見せた憎悪。それを裏打ちしていたのは、結局のところ嫉妬だったのだろう(エセルドレーダもそうだ)。
一方、例えば瑠璃ルートでアル・アジフの見せる嫉妬は、むしろ魅力的であるし、あの「カラクリ」を超えるひとつの武器にもなっていた。
その対照的なあり方がなんとも面白い。どちらも、全力で限界の境界上の嫉妬だったことに間違いはないと思う。


話を戻して。
人である限り、嫉妬からは逃れられないように思われる。嫉妬に主導権を握られてしまった時点で、厄介なことになる。おそらく、肯定されるべき嫉妬とは、嫉妬を抱いている当人が、自らのその感情は嫉妬であるということを自覚している場合だろう。自覚することのできた時点で、それは有益なものになる可能性もはらんでくるのではないか。
もしくは、ヤキモチレベルのものは、許容されていいのかもしれない。


そんなわけで、読了。

嫉妬の世界史 (新潮新書)

嫉妬の世界史 (新潮新書)


歴史を、普段見えにくいような視点から(教科書的な側面からではなくて)、特に文化人類学的、民俗学的、民族学的な見方で読み直すというのが結構好きだ。ある特定の感情での切り口もまた面白い。嫉妬というのは秀逸な目の付け所だ。むしろ歴史の大局の根底で人を突き動かしている大きなものが嫉妬であるということは、そこから逃れる術はないように思われる分、容易に想像できる。


本書では、ローマ、中国、イスラムナチスドイツ、戦国、幕末などなどと、古今東西の嫉妬のあり方が示される。それらのエピソードを通して述べられているのは、如何に嫉妬を避けるかということ。
いずれも面白いのだけれど、最も興味深かったのは森鴎外についての記述。陸軍(軍医)内で、鴎外がやりとりした嫉妬と、受けた待遇に対する、文学を通しての意趣返しなど。その執念には目をみはる。


読みながら、そういえば以前いた職場に、常に憎悪を周囲に撒き散らしている上司がいたが、その根本にあって突き動かしていたものは嫉妬だったんだなあと、しみじみ思った。確かに世界すべてに嫉妬しているような人だった。ああいう人には二度と関わり合いにはなりたくないが、ただ反面教師としては、またとない貴重な経験ではあったがなあ。