『遥かに仰ぎ、麗しの』

キャンプの夜から、第8話終了まで。2時間弱進める。
やっていて楽しいゲームがある期間というのは幸せだなあと思う。朝起きて、一番にキャラのことを考えてしまうのが楽しい。それから日中、今日帰ってできるだけ早くやるべきこと終わらせて、それからじっくりと楽しもうと思えるのは、すごく楽しいことだから。同時に、終わらせたくはないなあとも思うわけで。そういうよいゲームの場合、その作品に接しているときは、一対一で、間違いなく掛け替えのないもので、ほかのゲームでは満足できないと感じるわけだから。
現実のところ、ほかのよい作品に出会えれば、また同じことを思うわけだけれども。しかし、そのゲームだからこそ、他には絶対にないというものは、やっぱり絶対にある。


海辺でのキャンプの夜。リーダさん。
リアルに生きていると、何かしらの転換点というものは、決して「点」として知覚されることはなくて、蓄積とか、ある程度のスパンを伴った時間経過として振り替えるのが、まあ普通だが。いやでも、実際のところ、それってやっぱり点みたいなもんかなとも思う。そういう点が実際にあるように実感している。人が「変わる」ということは滅多にないことだと思うけれど。過去にあった物は絶対にいまあるし、現在の自分に何の片鱗もないものは、未来の自分にあるはずもないと考える。存在する枠というか、ボンヤリとした境界線のなかで、いろんな要素が組み変わったり、表面にあるものと深層にあるものの位置関係が変化することによって、それが見た目には「変わった」と判断されるんじゃないかしら。本質的に何かが「変わる」ということは、なかなかにあるわけではないと。内的な変化は時を経てのものであったり、何かを繰り返しての変遷かも知れないし、その変化・変遷は過去として回顧すれば蓄積や時間経過として感じられる。そしてそれらによって自覚的に「変わる」のはやはり「点」として感じられるのではないだろうか。


まあそれはさておき。この夜を境に二人に対する云々。司の視点はたまに未来から回顧している感じになるけれど。それは自分と過去の自分との関係の表明であって、前回の感想に書いたような、関係によって関係を描く、そういう語られ方ととるのもアリだよなあと思う。
そうそう、だから転換点というのは未来からしか把握することはできなくて。御嬢様が自分の未来を決めた、日云々とか、そんなのもあったよね。
いや、しかし。リーダさんではないけれども、やはり鈍感すぎるというものではともいいたくはなるな(笑)。でも、司の鈍感さというのは健全な鈍感さとでもいうべきもののように感じられるので安心できる。彼の行動原理のある部分を絶望が支えているというのは確かかもしれないが、よくわからないが、もっと別の部分からその鈍感さが来ている気がするから。それを先天的といってもいいかもしれないが。多分、彼が常に自分の正しいと思う一線を意識してやってきたというときの、それと同じ性質のものだと思う。
一方のみやびの鈍さは、単に「無自覚な初恋」的なもので、リーダさんのいう、理事長から女の子に成り下がったという、それだけのことかもしれない。でもやっぱり、認められてこなかった絶望に由来する、でもさっき触れた司の場合とは異なる、簡単にいってみれば自信のなさが原因の鈍さなんじゃなかろうか。こんな自分が、という。だからこそみやびにこそひどく感情移入しちゃうんだよわたしは。みやびの肯定を求める悲しげな寂しげな表情と目は、なんというかすごく切ないよなあ。同時にものすごく美しいなあとも思ってしまうのだが。
みやびは、CGアルバムの1頁目の、上段左から3番目みたいな、眉を下げて、口が波状というかへの字になってる、悩みを押し込めている表情がよすぎる。